川上犬の特徴


頭および顎額広く、頭骨の縦線が明確で、頭部は耳の付け根の後方まで発達し、体躯に比べ頭骨が大である。
鈍三角形で他犬に比べて小さく、まなじりが上がっていて、両眼の間隔が近く、眼色は紅彩を帯びた濃い色である。
耳は三角形で厚くて小さく、側面より見て鼻梁の線に対してほぼ直角に立つ。
歯牙強く鋭く、特に犬歯の発達がよく、噛み合わせが正しい。口中は黒色である。
口吻(くちさき)鼻梁は直線で短く尖り、唇は完全に歯を覆い、鼻鏡は黒色・角型に近い。
前肢および肩肩が強大で前身の重量が前肢に多くかかっていて、肩胛骨は頸骨の線に対してほぼ直角である。
胸が深く後胸が発達している。
太く力強く、差尾・巻尾をなし、ほぼ飛節に達する長さである。
背は直で腰が強靱である。
後肢後肢細いが強靱で、飛節の角度が浅く、狼爪のあるものがあり駆歩型である。
体質と表現重厚精悍で威厳と底力があり、帰家性と忠順性が強い。
一般外貌体躯の均斉がとれていて、然も余裕があって、牡・牝の型体が判然としている。牡の体長は体高に近く、牝の体長は体高よりやや高い。体高標準は牡38cmより45cm、牝の体高標準は35cmより42cmである。
被毛体表の剛毛は真直で太く光沢があり、綿毛は軟らかく密生している。体の部位によって毛長に差違がある。
毛色赤柴・黒柴・白・赤である。

川上犬の歴史

江戸時代~明治時代

周囲を2000m級の山々に囲まれた川上村は、寒冷な気象条件から農業には適さず、稲作には向かないため、米の代わりにカモシカの毛皮を年貢として納めていた。カモシカの猟場は切り立った断崖の岩場で、猟犬にはカモシカと同等以上の敏捷性と強靭な足の裏の皮が必要とされ、「川上犬にヤマイヌを交配させた」との話が残っている。

大正時代

猟を生業としていた最盛期で、村内でも70頭ほどの川上犬が飼育されていた。大正10年には、全国的に減少する純粋な和犬の調査で内務省の担当者が川上村に入り、学術的にも大変貴重種であると保護を奨励し、信州柴犬として天然記念物に指定された。以後、村内でも保存活動の気運が高まり、一部の村民により保存会が結成された。

昭和時代・戦前から戦中

小海線の開通と林業が盛んになったことで、猟に従事する者が減少して猟犬も重要視されない時代となった。同時に川上村へも洋犬が流入し、川上犬の雑種化が進み、おりからの戦争で食糧難となり、軍部からの撲殺令により、村内の川上犬は、ほぼ全滅した。

昭和時代・戦後

撲殺令を懸念した村民が、八ヶ岳の山中で生活するキコリに純粋な川上犬の番(つがい)を託していたことにより、偶然にも、その犬たちの子犬を川上村に引き取ることができ、保存活動の基となった。戦後の貧しい生活の中、村外へ分譲した犬に多額の代金を支払って買い戻すなどの大変な苦労の末に、繁殖活動にも復活のきざしが見えたが、昭和40年には、純粋犬の絶対数の減少などが理由で、天然記念物の指定が解除されてしまった。

昭和50年以降

熱心な村民の努力により、村内で30頭、全国に200~300頭程度まで数が回復し、昭和58年には、長野県の天然記念物に再指定された。苦労を重ねての復活だけに、村民の保護育成に対する関心は高く、小学校児童による川上犬飼育の実施など、村全体で「生きた文化財」を守る態勢が出来上がった。

平成になって

平成18年の干支が戌であったことから、東京の恩賜上野動物園の干支展で、川上犬が多くの犬の中から代表として選ばれ、生後3ヶ月の子犬の三姉妹が公開展示された。かつての戦争で、上野動物園の展示動物と同様に、撲殺された歴史を持つことが選出された理由にあり、マスコミでも大々的に取り上げられて、川上犬の知名度が全国的に広まった。
現在でも子犬の分譲の申込は後を立たず、常に1~2年以上お待たせする状態が続いている。
参照文献 川上犬基礎情報 川上村公式ホームページ